オタクが必死じゃないだと?

この記事、全文を読んだが、私は真っ向否定する。

冒頭部分の、京都府で発生した16歳の少女が、手斧で父親を殺害したことと、「ひぐらしのなく頃 解」が関係なく、それを安易にマスコミが事件と結びつけたことについて問題視する点は同意する。

だが、次の段落以降は納得できないのだ。記事によると

アニメオタクはそんなことを言う前に、自分たちはしっかりと「オタク」という文化に責任と誇りを持って守ってきたのだろうか。「オタク」ならば、かつて千利休が切腹をもってしてまで守ろうとした「茶の湯」くらい、「オタク」を命がけで守っているか。日本のオタクは。私にはそう見えない。

と、書いている。

私は、切腹してまでアニメだろうが、鉄道だろうが、何のオタクでもいいが、"切腹してまで守ろう"などという考えを美化することが誤っていると思う。

人の命は尊いものであるのは言うまでも無い。人命をかけてまで、守るものがそんなにあるというのか?
オタクだからこそ、生きて守り抜くべきだ。死んだらオタクとしての行動全てが終わりなのだから。

その後、千利休の例を出してヲタク度合いを語っているが、それは千利休がオタクだったからという仮定自体が正しいのか?
千利休が、にじり口という入り口を発明したとなっているが、それは、権力関係を排除して客人をもてなす心があったのかもしれない。
私は、茶について無知なので、解釈は間違っているかもしれないが、少なくとも、ただのオタクだから、権力関係を排除したとは思えないのだ。その考え、精神がしっかりしていたからこそ、人々に受け入れられ、茶から、茶道として洗練されていったのではないだろうか。

ならば、千利休とアニメオタクを同じ次元に置くことは間違っている。
もし、仮に同次元にしたとしても、命をかけるなど、それこそ狂人の領域ではないか。

記事では、

それでは、今、「ひぐらし」を見ている、もしくは作っているオタクは、そこまで「ひぐらし」に生命をかけているだろうか。作っている人は魂を込めて作っているかもしれない。だが、見ている側はちっとも生命なんかかけていないではないか。それでは、なんでもかんでもあげあしを取るマスコミに、抗議できるだけの足元の強さはあるか。

と、書いている。

もし、先の千利休が茶ヲタで命をかけてまで守るという行動が必死ぶりを示すものだとするならば、この文も成立しない。

それならば、制作者は断固としてテレビ局に抗議し、場合によっては切腹をしてでも抗議の意思を示さなければならない。

反対に、抗議や切腹をしていないのだから、制作者は必死ではない。という風にもいえる。なのに、「作っている人は魂をこめて作っているかもしれない」と言う一文は、論理的に矛盾している。

その後、記事では、

だが、生命をかけて、「オタク文化」を守っていこうとしている人はいない。だから「ひぐらし」は放送禁止になる。
生命をかけても自分の作品を世の中に見せることが正しいと思うなら、ホームページでも作って続編をすべて流せば良いではないか。賛同する人間は、本名で自分の情報を公開して、その正当性を訴えればいいではないか。

と、書いている。

そもそも放送禁止ではなく、放送休止である。これは似て非なる。
放送禁止ならば、今後も放送されてはいけないはずだが、事件への影響を考慮して、放送を見送ったのだから、禁止ではない。

生命をかけようが、かけまいが、放送休止になるのは変わらないと思うけど。
生命をかけただけで、編成が揺らぐようなら、それこそ放送局にも問題がある。

文中では、「ホームページでも作って続編を流せばいい」と犯罪を助長する発言がある。
「ひぐらしのなく頃に」という作品の著作権を侵害してでも、流せというのか?
心あるアニメファン(ヲタク)だからこそ、著作権を侵害するようなことがあってはならないのではないか?

さらに文中では、「本名で自分の情報を公開して、その正当性を訴えれば良いではないか」と書いているが、これほど個人情報の問題がある時代にそこまでやるのはバカ以外の何物でもない。

永久に放送禁止ならば、別かもしれないが、事件の騒動もあって、一時的に放送を見合わせただけなのだから、そこまでするほどでもないだろう。

しかも、自分の情報を開示して正当性を訴えなくたって、論理的に正しい内容であれば匿名でも受け入れられるはずだ。
また、署名のような形で放送局に正式な形で抗議する場合でも、広く世間一般にまで自分の情報を開示する必要はない。署名とは、訴える相手に対して自分の情報を開示するのだから。

さらに記事では、

じゃあ、マスコミに、どんな風に上手に関連づけられて批判されても仕方ないとしか言いようがない。なにしろマスコミは何百人もの関係者を戦場や事故現場で犠牲としてきたジャンルである。まだまだ、力関係はアニメオタクよりマスコミの方が上の状態が続きそうだ。そして、「萌え」が「侘び」「さび」を超える日も遠そうだ。

と書いている。

「マスコミにどんな風に上手に関連づけられて批判されても仕方ないとしか言いようがない。」
この部分は受け入れがたい。

マスコミが何かセンセーショナルな事件が起これば安易にアニメやゲームのせいにする報道姿勢そのものをしっかりと批判すべきであり、アニメオタクが必死に行動しないことと、それとは別次元の問題。マスコミの間違った報道を安易に認めるような、この一文は到底受け入れられるものではない。

「なにしろマスコミは何百人もの関係者を戦場や事故現場で犠牲としてきたジャンルである。」
これだって、間違っている。
今の放送局や新聞局が戦場に出かけていない。
通信社から情報を買って配信しているに過ぎない。
むしろ、高みの見物をし、中途半端な正義感を振りかざし、誤った考察によってプロパガンダを行っているだけの存在に成り下がっていると私は思う。

ここのサイトでは、過去にも投票所の投票用紙に、アニメ・「らき☆すた」の登場人物名を書いたことを批判しているが、その画像だって、ギャグで作られたものかもしれないし、少なくとも私は、「誰に入れても同じ」という理由で、選挙に行かない人よりも、白票でも無効票でも「NO!」の意志を示すほうが、よっぱどいいと思う。

いや、ネタのためにそういう名前を書いて写真撮影し、消しゴムで消して、きちんとした候補者を書いたかもしれない。

選挙番組風の画面にアニメキャラの当確を出しているところなんか、選挙に無関心な人よりもいいと思う。それくらいの遊び心があったっていいじゃないか。

何よりも、そういうおふざけをする人に参政権を与えてもいいのか?と問題提起しているが、参政権は成人の日本国民に等しく与えられている権利であり、おふざけをしたから、剥奪されるようなものではない。

何より、選挙は秘密選挙が大原則なのだから、参政権を剥奪することなどできないはずだ。

単に、このサイトのこの筆者は、アニメヲタクが嫌いで、何かにつけて文句を言っているだけに過ぎない。

こういう思考をする人が、一丁前の口を叩くほうが問題ではないだろうか。
私は、アニメヲタクではないが、公正さに欠けた記事を、あたかも報道のような顔をして書くことのほうが問題だと思う。
livedoorも、ニュースで扱うのを考えたほうが良いのではないか?

「ひぐらし」放送中止に見るアニメオタクの限界
http://news.livedoor.com/article/detail/3317292/
http://www.encount.net/rettou/2_3267.php

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