本歌取りとパクリ

昨日は会社でリーンシックスシグマの導入教育的なものを受けていました。

その中で、出てきたことが。

シックスシグマは日本のTQC活動をベースにして分析してアレンジして発展させたものである。

リーンは日本のトヨタ生産方式をベースにして分析してアレンジして発展させたものである。

資料はもう少し細かく書いていたけど、ざっくり言うとそういうことだろう。

それと、質疑の中でこんなことも言っていました。

ほぼ日本で導入したものはそのままで否定はしていないんです。

ただ、日本人にしか通じない暗黙知の部分を変えたりはしています。

これを聞いて、「本歌取りだな」と思いながら、講義を受けていた。

私は、和歌の知識はあまりないので間違っているかもしれないが、元となる歌を素材として新しい歌を作ったり、元となる歌の語句・発想・趣向を取り入れて新しい歌を作ることを本歌取りという。

私なりの解釈をするなら、元の歌をネタにしてパロディを作ったり、元の歌をネタにしてそこから発展・昇華させていったものだろうか。そこには敬意がどこかあるように思う。中には誓いの歌を恨みの歌にしたようなものもあるが、それも元の歌(本歌)が名歌だからのことだろう。やはり、そこには本歌への敬意があるように思う。

わかりやすい例示を出すと、カレーの本場は言わずと知れたインドである。日本人の大半はインドがカレーが本場であることを知っている。また欧風カレーなんかもある。その上で、日本人の嗜好に合うようにアレンジし、さらにはスープカレーのような独自に発展させ、昇華させていったものもある。こういうのは本歌取りだと思う。

この教育のリーンもシックスシグマも本家が日本の文化にあることはしっかりと示されているし、そこを学問としてきちんと分析し、研究し、さらには自分たちに合うような、あるいは普遍性を持たせた学術として、実学として昇華させていったものと解釈した。だから、私はこれを本歌取りだと思った。

一方、似たような言葉で、「パクリ」というものがある。

これは、どちらかと言うと、模倣した物(者)を見下すような、時に侮蔑するような意味合いがこもった言葉だと思う。そこには、劣化した模倣の域も出ず、本家本元への敬意がないから、他者の評価が悪いのだろう。

どちらも模倣・パロディに関連した類似した言葉ではあるが、ニュアンスが異なるのは、敬意の有無や発展・昇華の程度の違いにあるように感じる。

新しいものを生み出すのは大変であるし、なかなかアイデアも出てこないだろう。

ならば、本歌取りと言われるような、そういうものを作っていくというのもアリではないかと感じる。その一方で何でもパクリパクリと安易に批判するのもよろしくない。

なぜなら、日本人は本歌取りの文化によって追いつき、追い越してきて現在の豊かさを享受しているのだから。

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