江東区女性殺害事件、無期懲役の判決
この裁判は裁判員制度を見据えての、いわば、モデルケースとなる裁判と言われていますが、判決にも検察のプレゼンにも問題が多々あると思います。
戦慄すら、でも残虐極まりないとまでは…星島被告判決
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090218-00000025-yom-soci
まず、この裁判で検察は証拠品をモニターに写すなど、随分、ビジュアルに訴える手法を取ったと言われています。
証拠品を写すのは、物証ですから問題ないでしょう。
しかし、肉片などを遺族や傍聴席に見せるのは、やり過ぎではないだろうか。
審理のために必要な人(裁判官や裁判員)は見る必要があるだろうけどさ。被害者感情を考えると、あまりにも惨いな・・・と。
それと、殺害の状況をマネキンを用いた再現で説明するのも、わかりやすさを重視してのことだろうが、これでは、まるでテレビのワイドショーと同じではないだろうか。
この再現は、あくまでも物的な証拠でもない。これは供述や証拠から推定される行為であって、それをあたかも事実のように仕立てるのも、正確な審理に支障をきたす可能性もある。
職業裁判官であれば、事実と事実からの推測は区別して考えるだろうが、一般の人がそこまで明確な違いを認知しながら審理をするだろうか。
検察がこういう手法を使えば、被告側弁護人も同様の手法を使い、インパクト勝負になりかねない。まるでテレビドラマの裁判シーンのようになってしまうことだろう。
裁判は証拠品や供述、証人などを用いて、事件の事実関係を精査して、有罪か無罪か、有罪ならば、どの程度の量刑にすべきか判断する場のはず。感情に訴えかけ、冷静な判断を困難にさせる手法には注意が必要ではないだろうか。
その一方で、冒頭陳述や論告で、平易な表現を用いることは良い傾向だと思う。(個人的には、硬い表現の文は好きなんだけどね。)
次に判決である。判決を決めた理由については永山基準などを出して丁寧に説明していたと思う。
しかしながら、裁判員制度を見据えた割には、一般の人の価値観と大きく乖離しているのではないか。
例えば、目隠しをして、首を一刺しした事実を、「殺害においては、ことさらに死の恐怖を与えるようなことはしていない」としている。
だが、私が被害者の立場ならば、いきなり連れ去られただけでも生命の危機を感じるし、目隠しをされれば、さらに何が起こるかわからず、恐怖心は強まると思う。例え、それが首を一刺しで一気に殺されたとしても。
犯行の計画性がなかったとしても、その後、遺体を細かく切断したのも常軌を逸しているし、残酷だろう。
殺害人数が少ない場合は、残虐性や計画性が問われるというのは、従来の裁判のあり方で、庶民感情を裁判に反映させることを趣旨とした裁判員制度とはかけ離れた判決だと感じた。
その一方で、本当に裁判や法に庶民感情が必要なのか。ということも再考すべきなのかもしれない。
被害者および被害者遺族の心情を察すれば、どうしても量刑は厳しくせざるを得ないと思う。それが庶民感情だろう。
しかし、その判断が、他の裁判や過去の裁判(判例)とのバランスの上で適切なものかと考えた場合、淡々と量刑を決めることも間違いとは言い切れないのではないか。罪の大きさに見合った罰を与えるという点では、感情に流されない判断も必要だと思う。
今回のような死刑か、無期懲役かという場合、1段階しか量刑の差はないけど、その差はかなり大きいわけで、その時、どちらに傾くか、かなり揉めるような気がする。
やっぱり、この制度はもう一度考え直したほうがいいんじゃないかと思う。