教育とは「間違える場」である。
聞くは一時の恥聞かぬは一生(末代)の恥って言葉があるんですけどね…
先生に質問しない生徒が約6割、理由は「面倒」
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仕事で(社内)教育関係も扱っているのですが、セミナーで
「教育の場で間違えて、実地で間違わないようにするのが教育」
ということを聞いて、なるほどな~と思ったことがあります。社会人教育と学校教育は違いがあると思いますが。
企業教育の場合、業種・職種によっては、間違いが大事故になることだってあるのです。
例えば、航空機のパイロット。誤った操縦の結果、シミュレーターで墜落をしても誰も犠牲になりません。これは模擬で教育の場だから。でも、実地でやったら死んでしまいますよね。
工場で、ある機械の操作を誤った結果、機械にはさまれたり、火傷をしたり、大爆発ということも全く無いわけではありません。
航空機や工場もフェールセーフ(間違っても軽微な事故で済むような設計)やフールプルーフ(間違いを起こすことを前提に事故が起きないようにした設計)の思想があったとしても。エラーの連鎖を断ち切れずに事故ということはあります。
むしろ、教育の場で、
「どの程度までやったら、事故になるのか」
を試して、知ることで、実地では事故の手前になるようにすることができるのです。
そういう意味では、「間違えること」は非常に大事なんですね。
学校教育も、根本は同じだと思います。間違えて覚えていくものだと思います。
だから、
●間違えることは恥ずかしくない。
●知らないことも恥ずかしくない。
(※だからと言って、知らないことを自慢するのは違うけど。)
恥ずかしいのは、知らないのに知ったかぶりをすること。
そして、その結果、大事な場面で恥をかいたり、入試などの大事な場面で答えられないことなんですね。
さらに言えば、児童・生徒が同じようなパターンで間違えるなら、教え方や教科書・教材に問題があるのかもしれません。
それに気づかずに教え続ける教師も、その教師から教えられる児童・生徒も不幸だと思うのです。
質問をしない児童・生徒が多いならば、教師と児童・生徒とのコミュニケーションのあり方も考える必要があるのではないだろうか。
例えば、みんなの前で質問するのが恥ずかしいと感じるなら、チームティーティング制(複数担任制)なんかも考える必要があります。
チームティーティングとは、主教師は従来の教師と同じように授業を進める一方、副教師は質問があった児童・生徒のところに行って、質問や理解しにくい点をフォローする方法です。
私の学生時代には、学習指導要領改訂前に情報技術基礎という教科を先取りしてやっていたのですが、この際にチームティーティング制を使っていました。私は、プログラミング等の経験があったので、自分の課題が終わったら、副教員として机間巡視をして質問に答えていましたよ。
この方法の難点は教員数が多く必要だったり、場合によっては、進行が遅れることですね。
他にも、放課後や休み時間に聞きに行くとか、児童・生徒同士で教えあう、わからない部分があるかどうかを簡単に伝えられる方法(例えば、机に決まった看板を置いたら、わからない部分がある。)を使うことでフォローが必要な児童・生徒を絞り込むというのもあると思いますけどね。
とはいえ、教師自体も余裕がないから、なかなか十分にフォローしきれないというのが、学校教育の現状なんじゃないですかね。
大学生ボランティアや元教員などの教師以外の外部の人員を活用するのも一つの方法だと思います。