オリンピックを履き違えていないか?
「五輪のメダルは、金・銀・銅・鉄・アルミ・錫・鉛で上位7人にあげるべき」…中国の作家がIOC会長に訴え
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1170570.html
金・銀・銅で十分だと思うし、くだらない提案だと思うが。
それよりも気になったのは、ネタ元の本文にあるこの部分。
「メダルそのものには大した価値はない。あるのは個人と国家の名誉だ。ならばもっと
多くの選手をたたえても良いではないか」というのが張氏の主張だが…。
ちょっと待て。
個人の名誉というのは理解できるけど、国家の名誉って間違ってないか。
まず国別のメダル数を争うのは、アメリカ・日本・中国・発展途上国くらいだぞ。ヨーロッパでは、国別云々というのは、ほとんど出てこない。成熟した国家国民ほど、国ではなく個人を評価しているようだ。
もちろん、国別を持ち出さないヨーロッパだって、自国の選手は応援する。そして、スポーツそのものを楽しみ、感動するというスタンスのようだ。
ましてや、どこぞやの国のようにオリンピックのメダルを獲得するために、膨大な予算を投入したり、メダルを取れば一生安泰、取らなければ非国民扱いされるようなことが、オリンピックの精神に沿っているのだろうか。(ただ、メダルを取った選手を褒め称えるということは必要だと思う。)
特にヨーロッパで、国家の威信という考えから脱却したのには、恐らく、かつて、ヒトラーが国をまとめる道具としてオリンピックを使ったからでしょう。特に1936年のベルリンオリンピックはナチスドイツの威光を世界に示すものになったわけで。それに対する反省と繰り返しをしないことや、スポーツそのものの素晴らしさに目を向けた結果なのではないでしょうか。
個人の素晴らしさを褒め称えることは必要だと思うが、それが国家対抗という形になった途端、何か黒いものを感じる。
もうそろそろ日本のメディアも、バカの一つ覚えのようにメダル、メダルと騒ぎ、国別メダル数なんて集計をやめたらどうだろうか。
メダルを取っても取らなくても、4年間の努力は素晴らしいし、ましてや、国の威信なんて糞くらえではないか。
大事なのは国じゃない。選手個人に対する尊敬と賞賛ではないだろうか。
※追記
今、サキヨミ(フジテレビ系の番組)でオリンピックのメダルを獲得するために300億円超の税金を投入すべきか?という議論をしていました。
その中でオリンピック憲章でオリンピックは、国家間の競争ではない。ということが紹介されていました。
税金の投入の是非や金額の程度の問題は別にしても、記事のような国家間の競争ではないということをオリンピック憲章で定めています。
オリンピック憲章(JOCのページより)
http://www.joc.or.jp/olympic/charter/chapter1/9_10.html
1- オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での競技者間の競争であり、国家間の競争ではない。オリンピック競技大会は、このような目的のために個々のNOCによって指名され、IOCがその参加を認めた選手たちが一堂に会し、当該IFの技術的指導のもとに競技をおこなう大会である。
この点からも、やはり、中国の作家の「国家の名誉」というのは間違っていると思いますね。
個人的には、税金の大幅な投入は反対。ただし、現在よりも増額すべきだと思います。
まず、大幅な投入に反対する理由は、今の国民生活は瀕死の状態と言っても過言ではないこと。ネットカフェ難民やワーキングプアの問題など、徐々に貧困層が増えていて、最低限、国民が安心で安全な生活を送れる状態にすべきで、財政再建問題もある状況下では、限られた予算を有効に使うためには優先順位付けが必要で、その上位は、これらの問題に充てるべきだと考える。
しかしながら、アスリートを取り巻く環境が決して十分ではないこと、また、次世代のアスリートを育てるためにも、もっと運動施設を拡充させたり、指導者が専業でやっていける必要はある。そういう意味で、予算の拡充は必要だと思う。
今も大事だけど、未来にも少しは種を蒔く必要がある。その意味で多少の増額は必要ではないか。と、私は考えている。