茨城連続殺傷とゲームの因果関係
またマスコミはゲームと連続殺傷を結び付けようとしている。茨城での事件は衝撃的だったし、警察の装備不備も話題になっているが、秋葉原に行き、ゲームが好きで大会にも出ていたことも報じられている。
こうした中、さっそく「ゲーム脳」なる説をとなえる人が「犯人はゲームの主人公になりきったのだろう」とか「ゲームの世界と現実と区別ができなくなっている」「ゲームを続けると自己抑制ができなくなることがある」などと発言し、ゲームが悪のように言っている。
先日、タクシーの中で運転手さんと自宅の最寄り駅周辺での若者の粗暴な行動について話したことがある。その運転手さんは、その若者達を乗せていて、若者が
「あー、誰か殺してぇ。」
などど言っていたといい、運転手さんは、
「これもゲームの影響なんですかねぇ。」
と言う。完全にマスコミに毒された人の発言だなぁ。と思った。
ゲームだって、血みどろのゲームもあれば、動物たちとふれあい、優しい気持ちにさせてくれるゲームだってある。何でも一くくりにすることが空恐ろしく感じた。
そこで私は、
「ゲームを悪者にするのは、簡単だけれど、それは現実を直視していないと思いますよ。」
と言った。続けて私は、
「ゲームだってテレビだって、世の中だって、良い物もあれば悪い物もある。良い物しか与えなければ子供は純粋培養のようになり、悪い人・物だらけの社会に放り出された時に抵抗力がなくなってしまう。大事なのは、ゲームを単に与えるのではなく、そこから何を感じ取れるかという感性を養うような教育ではないんですかねぇ。」
と言った。
世の中は清濁併せ持っているのである。子供の成長段階に応じて、少しずつ悪い物も教えないといけないと思う。そうでなければ、先の会話じゃないけど、子供は免疫力を持たずに世の中に放り出されれば、あっという間に悪い連中の餌食になってしまう。
それに、槍玉に挙げられるRPGゲームだって、ストーリーを理解すれば、いい話もあるもんだ。
悪い連中が国や世の中をおかしくする。敵を倒してゲームをクリアすると平和な世界が取り戻せるし、ゲームの中では敵を倒すだけではなく、仲間と協力することだってある。
「敵を倒す」という表層だけを捉えれば問題かもしれないが、ゲームの物語性に目を向ければ決して悪いものではない。
親子が一緒にゲームで遊んで、「みんなが幸せそうになって良かったね。」と子供に語りかけてあげたらどうだろうか。ゲームだって、うまく使えば子供の教育には有用だと思うけど。
もっと言えば2時間サスペンスドラマのほうが、私はゲーム以上に悪影響だと思うけど。殺すシーンがあったり、パイオツ・ツーケーが出ている(だから、なぜバシタカ風?)シーンがあったりして、こっちのほうが教育上良くない。
ゲームが悪いと言うなら、そういうドラマや映画も放送・上映しなければいい。
結局、テレビの連中はテレビの敵になるような媒体(この場合には、ゲーム)を叩き出したいだけなのだろう。だから、インターネットにも批判的なカビの生えたような意見しかコメンテーターは言わないのだろう。
そういうメディアに毒され、決まりきった考え方しか植えつけないほうが、私は害悪だと思う。ゲームが悪いのではない。犯人の人格や思考が問題なのだ。叩くべき相手を間違っていると思うのは私だけだろうか。
[茨城連続殺傷]潜伏用スーツ、三浦さん殺害の数日前に購入
http://news.livedoor.com/article/detail/3568938/